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しょきかん
書記官
川上 眉山
「太陽」1895(明治28)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,182 字 · 36 页
荻の湖の波はいと静かなり。嵐の誘う木葉舟の、島隠れ行く影もほの見ゆ。折しも松の風を払って、妙なる琴の音は二階の一間に起りぬ。新たに来たる離座敷の客は耳を傾けつ。
糸につれて唄い出す声は、岩間に咽ぶ水を抑えて、巧みに流す生田の一節、客はまたさらに心を動かしてか、煙草をよそに思わずそなたを見上げぬ。障子は隔ての関を据えて、松は心なく光琳風の影を宿せり。客はそのまま目を転じて、下の谷間を打ち見やりしが、耳はなお曲に惹かるるごとく、髭を撚りて身動きもせず。玉は乱れ落ちてにわかに繁き琴の手は、再び流れて清く滑らかなる声は次いで起れり。客はまたもそなたを見上げぬ。
廊下を通う婢を呼び止めて、唄の主は誰と聞けば、顔を見て異しく笑う。さては大方美しき人なるべし。何者と重ねて問えば、私は存じませぬとばかり、はや岡焼きの色を見せて、溜室の方へと走り行きぬ。定めて朋輩の誰彼に、それと噂の種なるべし。客は微笑みて後を見送りしが、水に臨める縁先に立ち出でて、傍の椅子に身を寄せ掛けぬ。琴の主はなお惜しげもなく美しき声を送れり。
客はさる省の書記官に、奥村辰弥とて売出しの男、はからぬ病に公の暇を乞い、ようやく本に復したる後の身を養わんとて、今日しもこの梅屋に来たれるなり。