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つきとてぶくろ
月と手袋
江戸川 乱歩
「オール讀物」文藝春秋新社、1955(昭和30)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 39,541 字 · 80 页
誰にも会わなかった。どこの窓からも覗いているものはなかった。表のどぶ川沿いの道路は、月の光で遠くまで見通せる。どこにも人影はなかった。腕時計を見ると、八時二十分だ。八時半にはまだ充分余裕がある。
どぶ川が月の光をうけて、キラキラと銀色に光っていた。海の底のような静けさだ。向うに立っている何かの木の丸い葉もチカチカと光っていた。こちら側の生垣のナツメの葉もチカチカと光っていた。
(なんて美しいんだろう。まるでお伽噺の国のようだ)
こんなくだらない街角を、これほど美しく感じたのは、はじめての経験だった。
彼は口笛を吹き出した。偽装のためではない。なぜか自然に、そういう気持になった。口笛の余韻が、月にかすむように、空へ消えて行った。
(だが待てよ。もう一度検算して見なければ……)
克彦はたちまち現実に帰って、不安におののいた。
(窓からの叫び声を聞いて、玄関に駈けつけ、うちの中にはいるまでの時間が重大だぞ。そのあいだに仮想犯人はいろいろのことをやらなければならない。あとから考えて、その時間がなかったという計算になっては大変だ。危ない危ない。犯罪者の手抜かりというやつだな。