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みらいのてんさい
未来の天才
豊島 与志雄
「人間 第三卷七月號」人間社出版部、1921(大正10)年7月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,630 字 · 38 页
我を忘れて彼女の肩を抱きしめた。まるっこい肩の肉が私の胸で、護謨毬のようにはずんでいた。私は彼女の耳に囁いた。
「私はあなたを恋していたんです。」
彼女が軽く首肯くのが、私の胸の底まで泌み通った。その後で、あたりがしいんとなった。水の底へ沈んだような気持ちだった。私はぼんやりして、曇り硝子を通してくるような明るみが濃霧の上に流れてるのを、見るともなく眺めていた。柔かな香ばしい息に気付くと、彼女はそっと頭をもたげて、私の顔を見上げていた。私が眼を落すと、その上目がちな黒い瞳がちらと動いて、ふっくらした頬にとりまかれた小さな口元に、うっちゃりっ放しの若々しい微笑が、すっと流れた。それがはっきり私の眼に映った。モナ・リザを眺めながら想像した通りの表情だった。私は飛び上った。地面に身を投げ出したかった。空に翔け上りたかった。彼女の手を取って、私はぐんぐん歩き出した。
歩きながら、私は一人で饒舌り出した。伯父から五百円貰ったこと、その半ばをどう使ったかということ、彼女の肖像を描きたいこと、彼女をどんなにか恋してたこと、自分の前途の理想のこと、愛と芸術とさえあれば世の中に何にもいらないこと、彼女と輝かしい未来を共にしたいこと、……いくら語ってもまだ足りない気がした。