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くりのはな

栗の花

岡本 綺堂

「木太刀」1919(大正8)年12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 2,717 字 · 6 页

青空文庫

M君の動議で小船を一時間借りることになって栗の木の下にある貸船屋に交渉すると、亭主はすぐに承知して、そこに繋いである一艘の小船を貸してくれて、河下の方へあまり遠く行くなと注意してくれました。承知して、三人は船に乗り込みましたが、私は漕ぐことを知らないので、櫂の方は両君にお任せ申して、船のなかへ仰向けに寝転んでしまいました。もう八時頃であろうかと思われましたが、英国の夏の日はなかなか暮れ切りません。蒼白い空にはうす紅い雲がところどころに流れています。両君の櫂もあまり上手ではないらしいのですが、流れが非常に緩いので、船は静かに河下へ降って行きます。云い知れないのんびりした気分になって私は寝転びながら岸の上をながめていると、大きい栗の梢を隔てて沙翁紀念劇場の高い塔が丁度かの薄紅い雲の下に聳えています。その塔には薄むらさきの藤の花がからみ付いていることを、私は昼のうちに見て置きました。

船は好加減のところまで下ったので、更に方向を転じて上流の方へ遡ることになりました。灯の少いここらの町はだんだん薄暗く暮れて来て、栗の立木も唯一と固まりの暗い影を作るようになりましたが、空と水とはまだ暮れそうな気色もみえないので、水明りのする船端には名も知れない羽虫の群が飛び違っています。