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くすのきのはなし

楠の話

豊島 与志雄

「文章世界 第拾四卷第四號」博文堂、1919(大正8)年4月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,820 字 · 22 页

青空文庫

父も何か答えた。すると男は立ったまま、仲間の者等に何か云った。そして一人の若い男が立ち上って、父の方へ一寸頭を下げ、大急ぎに其処を離れて門の方へ出て行った。外の者は皆、煙草入れを腰から取って煙草を吸い初めた。

其時父は初めて楠の幹から離れ、村人の方へ向いた。父の姿は急に病気らしい弱々しさに返った。村人は父を真中にして何やら小声に囁き交わしているらしかった。

それから暫くそのままの光景が続いた。私は初めてほっと吐息をつくと、身体がしっとり汗ばんでいるのに気付いた。初夏の太陽が私の頭から背中をじかに輝らしていた。そして私はその楓の後ろから出るか、声を立てるかしたくなった。然し私は父を恐れた。もし私が其処に忍んでいることを父に見付かったら、何かひどいことが起りそうな気がした。

私はじっと我慢した。そしていつのまにか其処に屈んでしまって、楓の根元の草をしきりにむしり取っていた。どの位時間がたったか私は知らない。大変長いようであるし、また僅かな間のようでもあった。

背広に中折を被った男が一人、自転車で私の家に走り込んで来た。彼は自転車を中門の所に置いて、真直に父の所へやって行った。