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はし

橋

岡本 かの子

「新潮」1933(昭和8)年5月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 1,955 字 · 4 页

青空文庫

下駄は戻った。然し私は深くこのことを恨んだ。そして橋はそれきり渡らなくなった。

橋についての執着は娘時代から結婚時代に入っていつとはなく薄れて行ったが、それが今度の洋行ときまるとなぜかふたたび濃くなって来た。外国でいくつか渡る橋を想像したとき執着の口火がふたたびつけられたのかも知れない。従ってあのときの恨みも橋の興味にくくりつけた小荷駄のようになって一しょにせり上って来た。私は恐ろしく思った。しかしそう思いながら、新らしい日和下駄を買ってそっとスーツケースの奥に入れた。鼻緒にはまさかもう赤と黄色もつけられなかった。黒に朱のあられ模様のをつけた。

×

ヴェニスの見物も済んだので汽車の都合上、朝まだ暗いうちにホテルを出発した。ホテルの水苔の生えた石段から私はゴンドラに乗った。沖のムラノ島を半面影像のように左に見て大運河へ入った。まだ夜中の水の都は蟠った一つの黒い塊に過ぎなかったが、杭の尖の水路燈だの壁に反射する鉄燈籠などで、運河の河筋を示していた。やがて頭に冠さるようにリアルト橋が来た。私は船頭にそういって船を橋岸につけて貰った。テームズのロンドン橋でもセーヌの新橋でも使わなかったあの日和下駄を手鞄から取出した。