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じろうものがたり
次郎物語
下村 湖人
03 第三部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 117,781 字 · 235 页
しかし、数学そのものの知識がすぐれているとは、決して言えなかった。というのは、その美しい文字の前で、先生が立往生することはしばしばだったからである。立往生する前には、先生は、きまって、「あの何じゃ」という言葉を何度もくりかえした。生徒たちはよく心得たもので、先生の「あの何じゃ」が頻繁になって来ると、もう黒板から眼をそらし、お互いに鉛筆でつつきあいながら、くすくす笑い出すのだった。そうなると、先生は、いよいよ行詰りの打開が出来なくなるわけだが、しかし時として、先生に、その場合に拠する臨機の妙案が浮かんで来ないこともなかった。それは、くるりと生徒の方を向いて、その大きな掌を、腰の両側に蛙のようにひろげ、
「誰じゃ、笑ったのは。はじめからよく見とらんと、わからんはずじゃが、もう一度最初からやってみせる。ええか、今度はよく注意して見とるんじゃぞ。」
と、さっさと黒板の文字を消してしまうことだった。
次郎は入学の当時、はじめてこの先生が教室に現れて来た時には、その容貌体躯の偉大さに気圧されて、息づまるような気持だった。彼は、先生が出欠をとる間、坂上田村麿をさえ連想していたのである。