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しのぜんご

死の前後

豊島 与志雄

「経済往来」1933(昭和8)年11月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 17,273 字 · 35 页

青空文庫

頭の近くにバケツがひっくり返って、恐らく水が一杯はいっていたものだろう。彼女の髪と肩とを濡らしていた。外傷はなく、中毒の模様もなく、台所の雨戸はしまっていた。島村は死体の眼瞼をなでて閉してやった。それから、タオルと叫んだ。女中がもってきた新らしいタオルで、濡れた髪と肩とを拭いてやった。

「手をかしてくれ。寝かしてやろう。」

その時、女中が急にわっと泣き出した。そして声をかみしめ、涙をぽたぽたこぼしながら、抱きつくように死体の足にすがった。島村は肩の方をかかえた。軽かった。女中部屋の布団に死体は長々と薄べったく寝かされた。

「しばらく、子供たちが起きないように、たのむよ。」と島村は云った。

細君は血の気を失い、蝋のような顔をして、眼にためてる涙だけが生々と輝いていた。島村は電話口へいった。

晩春の白々しい夜明の光が、欄間の硝子戸から、電燈の明るみの中にさしこんでいた。

島村と懇意な田中医学博士が、急報をきいてすぐに来てくれた。おしげは死後四五時間経過したらしく、策の施しようがなかった。死因に怪しい点はなかったが、家族ではなく、急死なので、一応警察医の立会も求めることになった。