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かじか

河鹿

岡本 綺堂

「婦人公論」1921(大正10)年7月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 5,671 字 · 12 页

青空文庫

なんだか薄ら寒くなって来たので、わたしは起って二階の縁側の硝子戸を閉めた。

「戸を閉めても河鹿の声は聞こえるだろう。」

「そりゃ聞こえるさ。」と、S君は笑いながら答えた。「柄にもない、君はしきりに河鹿を気にしているね。一夜作りの風流人はそれだからうるさい。だが、僕もあの河鹿の声を聞くと、なんだかいやに寂しい心持になることがある。いや、単に風流とか何とかいうのじゃない、ほかに少し理由があるんだが……。」

「河鹿がどうしたんだ。何かその河鹿に就いて一種の思い出があるとかいうわけなんだね。」

「まあ、そうだ。実はその河鹿が直接にどうしたという訳でもないんだがね。僕がやっぱりここの宿へ来て、河鹿の声を聞いた晩に起った出来事なんだ。僕は箱根の中でもここが一番好きだから、もうこれで八年ほどつづけて来ている。大抵は七八月の夏場か十月十一月の紅葉の頃だが、五年前にたった一度、六月の梅雨頃にここへ来たことがある。いつでもこの頃は閑な時季だが、とりわけてその年は、どこの宿屋も閑散だとかいうことで、僕の泊っていたこの宿も滞在客は僕ひとりという訳さ。お寂しうございましょうなどと宿の者はいっていたが僕はむしろ寂しいのを愛する方だから、ちっとも驚ろかない。