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かいりゅう

海流

宮本 百合子

「文芸春秋」1937(昭和12)年8月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 35,977 字 · 72 页

青空文庫

東京に井上という苗字の家は何百軒かある。電話帳を見なさい。くさる程ある。それが偶然間違ったからって、俺の知ったことではないじゃないか。第一そんな者がいるんなら毎晩どんなにおそくっても家へかえって来て寝るなんて奴があるか」

「ねえ、嫂さん、こういうずうずうしいことを云うんですよ。これまで何百遍高島屋からものを届けさせたか知れないけれど、一遍だって高輪の井上様とは書いてきませんでしたよ。あなたが、これは大森の方だよと云ったから、そう書いてあるんじゃありませんか」

「帳場でしらべて来なさい。そしたら気がすむだろう」

「帳場なんか!――自分でちゃんと口止めしといて……ああ、ああ」

さわ子はぼってりとした肉付で重い体を捩るようにしてまた涙をこぼしはじめた。

「勇蔵ったら、御覧なさい、こうして私をどっちへも手も足も出ないようにしてしまって、死ぬのを待ってるんです」

井上は、葉巻の先を切りながら加賀山に向って、

「君に云っては相すまんが、僕は女房には失敗した。加賀山にもこういう頭の悪い奴が出るんだね。――実は僕は子供らも母親が母親だから大して期待しないことにしたよ」

勇蔵の言葉が子供のことに及んだ時、泰造は、非常に真面目な苦痛そうな表情を浮べた。