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しぶやけのしそ
渋谷家の始祖
宮本 百合子
「中央公論」1920(大正9)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 68,023 字 · 133 页
ただ、希望である。形の纏らない野心(アンビション)である。功名心である。一つの暗い洞穴を抜けながらも、天性の自負を失いきれない正隆にとって、それ等は限りなき赫奕(かくえき)たるものに想われる。嘗て彼が、大学の制帽を戴いていた時分に夢想した成功というものと、今の成功とは、その内容の複雑さ、甘美さに於て、著しく違って来ている。
自分の成功は、世間への華々しい出現は、同時に彼の重宝である美の信子を、一層燦然と輝やかせることであり、彼女の輝きは、同時に翻って、彼の至上の背光(グローリー)となるのである。
そこまで考を辿って来ると、正隆は、最初の、けれども――という湿っぽい、稍々(やや)伏目になった愁訴を何時の間にか忘れてしまっていた。結局、何といっても、自分は幸福なのだ。仕合わせなのだ。時が経てば、自然にどうかなることを、かれこれ思うのは決して利口な遣り方ではないのだ。信子は素敵だ。親切だ。行届く。それでいいのではあるまいか。
結婚して間もない若い女性に、それ以上の注文をするのは、自分の方が無理なのだろう、まだ馴れないのだ。まだ馴れないのだ! そしてまた、同じ高みの朗らかさに戻る正隆は、翌年の夏、父親となって、一層その安心を確めたように見えた。