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しぶやけのしそ

渋谷家の始祖

宮本 百合子

「中央公論」1920(大正9)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 68,023 字 · 133 页

青空文庫

一時に勃発した激情の浪に乗って、我も他人(ひと)もなく荒れ狂っていた間は、まだよかった。然し、次第に酔は醒め、目が覚め、或る程度まで鎮まった正隆の心の前に現れた現実は、ひどいものであった。ほんとに、ひどい。生きるには、辛いほどの世界である。

一度でも、朗らかな希望の明るみに身を置いた正隆にとって、忘れようとしていた過去の追憶を一新して、今日に甦らせたばかりでなく、互に力を加え合って、彼の絶望を一層大きなものにする今の疑惑は、彼自身の力では逃れ得ない煉獄のようにさえ見えて来たのである。

K県での忘れ難い印象を、或は一種の病的(ハルシネーション)な幻想だったかも知れないと、彼自らに思わせていたものは、正隆の生活に与えられた、新たな幸福の力であった。

強調された現在の色調に、知らず知らず過去を薄めていた彼は、今、その頼む現在の破滅によって、俄に、過去を筒抜けに見るようになって来た。遠のいて、ぼんやりとしていた思い出が、一時にカッと鮮明な力強いものになって彼の面前に迫って来る。そして、あの時と、今との連続となっている僅か二三年間の光明は、却ってそれが明るいために、余計、左右の闇を濃くすることにほか役立たないのである。