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とせんば

渡舟場

豊島 与志雄

――近代説話――

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 11,509 字 · 24 页

青空文庫

兄さんの顔になにか烈しい色が走ったが、それきりで、兄さんは黙って向うへ行った。

兄さんは怒ったのかも知れない。この頃いったいに、たいへん怒りっぽくなった。怒りっぽいくせに、私には殆んど何にも言ってくれない。この二つが私にはつらいのである。兄さんが、中村佳吉さんのように、私に冗談を言ったり、おおっぴらに怒ったり、いろんなことを話してくれたら、私はどんなにか嬉しいだろう。兄さんはいつでも、一人で考えたり怒ったりして、私には何にも話してくれない。小松屋の加代子さんに対しても、兄さんはそうなのかしら。お母さんに対しても、兄さんはそうなのである。川原さんたちを見送りに町まで行く筈だったのに、渡し舟まででやめてしまったのも、兄さんの一人ぎめによるのだった。兄さんはなんにも訳を話してくれなかった。酔ってしまったから、そしてみんな酔っているから、舟までにしておこうと、言いきってしまったのである。

川原の小父さん小母さんと浩一さんと浩二さんとが、渡し舟に乗って向う岸へ渡るのを、私たちは水ぎわに立って見送った。薄曇りの空で、水面を吹いてくる風は寒かった。私は両袖を胸もとに合せて、なにか大切な思いをかき抱くような気持でいた。