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おぼるるもの

溺るるもの

豊島 与志雄

「中央公論」1928(昭和3)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 17,690 字 · 36 页

青空文庫

あたしははっとした。振向いてみると、男はねぼけた顔付で、不思議そうにこちらを見ていた。あたしは笑ってみせようとした。けれど、つぎほがわるく、またなさけなかった。頬辺を押えて顔を伏せた。

男はのっそり腹逼いになって、煙草を吸いだした。

「何をしてるの、そんなところで……。」

「歯が痛いのよ。」

「歯が痛い……?」

「あんまり痛むから抜いちゃったわ。癪にさわって……。」

云いかけてあたしはまた泣き出した。そこら中に当りちらしてやりたかった。どうにも我慢が出来なかった。

「歯が痛むくらい……、」と男は云っていた、「一寸医者に行ってくれば、じきになおる。……もう夜が明けてるよ。」

ほんとにもう夜が明けていた。窓のカーテンを開くと、室の中までぼーっと白み渡って、電燈の光が薄くなった。

「じゃあ一寸行ってくるわ。その代り、じきに帰ってくるから、待っててね。寝て待ってるのよ。屹度ね。」

そしてあたしは、慌てて着物を着て、裏口から飛び出していった。

薄曇りのどんよりした日だった。何だか夢の中のような朝の明るみだった。寒かった。淋しかった。いつまでも、どこまでも、そのまま歩き続けたかった。