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おぼるるもの

溺るるもの

豊島 与志雄

「中央公論」1928(昭和3)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 17,690 字 · 36 页

青空文庫

「片岡さん、ねえ、片岡さん、片岡正夫さん、」とあたしはあの人の名を呼んだ。それでもまだ足りなかった。あたしは泣いた、笑った。そしてあの人の名を呼び続けた。

あの人の様子はおかしかった。蒼い浅黒い顔をなお蒼くして、机に肱ついてる片手を、縮れ乱れた長い髪の毛の中にさしこんで、口と頬辺とで笑い、きつい眼付をしていた。その手と頭と笑ってる口ときつい眼とが、こわれた人形のかけのように、ばらばらになってあたしの眼にうつった。そして別な声が云っていた。

「喜代ちゃん、もう泣いたり笑ったり、つまらないことは止そうじゃないか。そんな仲でもあるまい。何もかも成行に任せるさ。そして酒だ。酒を飲もう。」

あたしは自分に返った。心が落付いた。ただわけもなくぼんやり微笑まれた。あの人も微笑んでいた。

「そのうち、君と二人で一日ゆっくりどこかへ行こう。」

「ええ、連れてって頂戴。」

そして酒を飲みながら、とりとめもない話をした。来る途中でどんなことがあったとか、知人にどういう面白い男がいるとか、どこそこに旅した時どんな目にあったとか、そんなことをあの人は話した。酒もいつもより多く飲んだ。