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おぼるるもの

溺るるもの

豊島 与志雄

「中央公論」1928(昭和3)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 17,690 字 · 36 页

青空文庫

ただ真暗なものを、一心に見つめてるきり……なんにもありゃしないわ。」

壁に軽く背をもたして、唇の先で煙草の煙を吐きながら、そんなことを云う彼女の顔には、どこかつんとした意地っ張りなところがあって、その眼には、鈍い視線の上に光が浮いていた。

彼女は今年二十三、丙午の歳だった。

「大変な歳に生れついたもんだね。九族を殺すっていうよ。」

「九族……?」

「親子兄弟、一家眷族を、みんな打負してしまうんだ。」

「そう。やっぱりどこか強いのね。」

他人事のように彼女は云って、淋しい笑いをした。

私は杯を重ねた。

酒はごくいいのを頼んで、それを二本か三本、つまみ物としてはただ海苔と※の類、初めから酔ってる時には砂糖水、そして彼女と一時間か二時間、取り留めのない話をした。

それだけで私には充分だった。私は彼女の肉体を漁りに来てるのでもなければ、彼女を愛してるのでもなかった。その愛慾の巷で時間を過すことによって、新たな生活の出発の一歩を、実人生に根を下した力強い一歩を、見出そうとしてるのだった。彼女はただ仮りの相手に過ぎなかった。――時によると、表を、新内の流が通った。ヴァイオリンの俗謡が響いた。