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ちち

父

矢田 津世子

「日暦」1935(昭和10)年11月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,168 字 · 38 页

青空文庫

窓に近づいて顔をのぞきこむとその眼がじっと遠くの何かを視詰めているようである。視線を辿っていくと、庭を越えた向うの離れの窓へ落ちていく。その窓からは湯上りらしいおきえさんが肌をぬいで鏡台に向っている様がのぞかれる。兄の眼はどうやらそれへ執着しているらしい。明るい電灯の下におきえさんの豊かな白い肌が冴えざえと浮き立ってみえる。化粧がすんだのか、高く手をあげて髪へ櫛をいれている。手が動くにつれて盛りあがった乳房が生まなまとした感覚をそそりたてるようである。

「須藤さん奇麗だなあ」

兄が呟くように云った。思わずも言葉が口を洩れたという風である。

「まあ、兄さんは、いつもここからみとれていたの」とつい厭味をきかせて云うと、

「ばかな奴だなあ」

と兄はひょいと躯を起して電灯をつけた。てれてか眉間へ気難しげに縦皺をきざんだ兄の顔はふと紀久子にいつかの父を思い出させた。

夜分厠へ起きた紀久子が用を足して部屋へ戻りかけると、これも厠へ起きてきたおきえさんと離れの廊下のところで出あった。緋鹿の子の地に大きく牡丹を染め出した友禅の長襦袢に伊達巻き一本のおきえさんの姿は阿娜めいて昼間のおきえさんとは別人の観があった。