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うし
牛
「文藝春秋 第三一巻第五号」1953(昭和28)年4月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 11,971 字 · 25 页
彼は両手の物をとり落したことにも気がつかないでいるようだった。魂をぬかれたような顔に、どこから忍びこんだか分らないような絶望的なカゲがフクフクと浮いていた。
緒方は別に何事も見なかったような冷酷な気持でわが家へ戻った。そして、その日の日記に、
「彼の落したカバンの異様に重い地響。牛の本の重きことよ」
というようなことを書いた。
★
その年の春休みの一日であった。
光也(牛の名である)はハーモニカをポケットに入れて家をでた。
学友の一人にハーモニカを吹きならす者がいて、そのえも云われぬ快音に光也はホレボレと心を奪われたのである。そこで彼は手ほどきを乞うた。病みついて二ヵ月になるが、彼の吹きならすフシギな音も彼の耳には音楽であったし、自らそれを味得する幸福でこの上もなく満足であった。静かな山林の中で自分の音楽を味うために彼は家をでたのであった。
山林の奥へすすんで行くと、近所に物音がきこえた。何気なくふりむくと、学生服の男が一人彼の方を見ているのに目が出会った。
女の悲鳴が起らなければ、気にとめずに通りすぎるところであった。
「イヤダァ――」