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きょうげんのかみ

狂言の神

太宰 治

「東陽」1936(昭和11)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 15,478 字 · 31 页

青空文庫

誰も知らない。みやこ新聞社の就職試験に落第したから、死んだのである。

落第と、はっきり、きまった。かれら夫婦ひと月ぶんの生活費、その前夜に田舎の長兄が送ってよこした九十円の小切手を、けさ早く持ち出し、白昼、ほろ酔いに酔って銀座を歩いていた。老い疲れたる帝国大学生、袖口ぼろぼろ、蚊の脛ほどに細長きズボン、鼠いろのスプリングを羽織って、不思議や、若き日のボオドレエルの肖像と瓜二つ。破帽をあみだにかぶり直して歌舞伎座、一幕見席の入口に吸いこまれた。

舞台では菊五郎の権八が、したたるほどのみどり色の紋付を着て、赤い脚絆、はたはたと手を打ち鳴らし、「雉も泣かずば撃たれまいに」と呟いた。嗚咽が出て出て、つづけて見ている勇気がなかった。開演中お静かにお願い申します。千も二千も色様様の人が居るのに、歌舞伎座は、森閑としていた。そっと階段をおり、外へ出た。巷には灯がついていた。浅草に行きたく思った。浅草に、ひさごやというししの肉を食べさせる安食堂があった。きょうより四年まえに、ぼくが出世をしたならば、きっと、お嫁にもらってあげる、とその店の女中のうちで一ばんの新米、使いはしりをつとめていた眼のすずしい十五六歳の女の子に、そう言って元気をつけてやった。