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どくしん

独身

森 鴎外

「スバル」1910(明治43)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,012 字 · 19 页

青空文庫

大野が来賓席の椅子に掛けていると、段々見物人が押して来て、大野の膝の間の処へ、島田に結った百姓の娘がしゃがんだ。お白いと髪の油とのがする。途中まで聞いていた誰やらの演説が、ただ雑音のように耳に聞えて、この島田に掛けた緋鹿子を見る視官と、この髪や肌から発散する※(「均-土」、第3水準1-14-75)を嗅ぐ嗅覚とに、暫くの間自分の心が全く奪われていたのである。この一刹那には大野も慥かに官能の奴隷であった。大野はその時の事を思い出して、また覚えず微笑した。

大野は今年四十になる。一度持った妻に別れたのは、久しい前の事である。独身で小倉に来ているのを、東京にいるお祖母あさんがひどく案じて、手紙をよこす度に娵の詮議をしている。今宵もそのお祖母あさんの手紙の来たのを、客があったので、封を切らずに机の上に載せて置いた。

大野は昏くなったランプの心を捩じ上げて、その手紙の封を開いた。行儀の好いお家流の細字を見れば、あの角縁の目金を掛けたお祖母あさんの顔を見るようである。

歳暮もおひおひ近く相成候へば、御上京なされ候日の、指折る程に相成候を楽み居り候。前便に申上候井上の嬢さんに引き合せくれんと、谷田の奥さんが申され候ゆゑ、今日上野へまゐり、只今帰りてこの手紙をしたため候。