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くじょしょうろく

痀女抄録

矢田 津世子

「改造」1939(昭和14)年7月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 32,578 字 · 65 页

青空文庫

師匠宅で帯安の番頭と行きあわせたことがある。京都に本店をもつこの大店の帯安では余程以前から師匠を口説きおとすのに骨折っているようであった。この帯安のほかに袋物専門の鈴仙商店と京橋の老舗玉井屋あたりの番頭なども根気よく未だに通いつめているようである。併し、師匠は、いわゆる「お店物」仕事をこれまで引き受けた例しがなかった。「お店物」で制限をつけられてしまうと針がまるで利かなくなってしまうと言われる。この時も、帯安の番頭のひっきりなしの京訛りに耳を藉しながら師匠は徐かに茶を啜って居られた。いつまでも茶碗を口から離さずにいるのは、この番頭の饒舌に相槌をうつことさえ避けていられるようにみえる。お喋りがちょっと途絶えたところで師匠は茶碗をおいて、

「折角ですが……」と言った。なお執拗に番頭は続けたが、師匠はこの言葉をくりかえしているだけであった。

当節は刺繍する者も柄がおちて、自分から店に出かけていって仕事を頼みこむという風だが、これでは好んで技を堕すというものだ、と師匠は折にふれてこう歎かれる。技を売ることにばかり切で、技を磨くことに念を凝らすひとが稀になった、と歎かれるのである。