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くじょしょうろく

痀女抄録

矢田 津世子

「改造」1939(昭和14)年7月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 32,578 字 · 65 页

青空文庫

「お師匠さん……」

銀三の眼にもこれは初めてらしかった。敷居のところから動かないで額に視入っている。思わずも、こう声が洩れたようであった。

師匠は振りかえったが、そっと逸らして、また額へ眼を戻した。

わたくしは、ふと、垂れ下った緋の房の先のほうが、糸が粗くなっていることに気が付いた。そこだけ、わずか糸の隙間が出来ている。房がわれているようにみせるために故意にそうしたものとも思われないので尋ねると、師匠は、

「ああ、この房かね……」

それなり黙ってしまわれた。

三昧堂がひとしきり世辞をのべたてて、手前褒めをして、間もなく帰ってしまうと、師匠はこう言われた。

「この房を仕かけて亡くなったのだが、……裏にまだ針がついている」

師匠は額を引き寄せて、うしろの止め板をはずして見せて下さった。ちょうど仕かけた房のところから三寸ばかりの緋の糸が下っていて、その先に、針は銀紙に幾重にも包まれて、なおその上を糸で絡らんであった。

「折角のものを錆びさせるといかんからな」

師匠は面映ゆげにこう言うて、銀紙の針をつまんだりしていられたが、わたくしの眼には、その針を手にしてひたむきに屈みこんでいる寿女さんの姿ばかりが迫るのであった。