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わたしがちょうさくりんをころした
私が張作霖を殺した
河本 大作
「文藝春秋」文藝春秋、1954(昭和29)年12月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 8,564 字 · 18 页
しかもその圧迫は、独りそうした暴虐に留らない、経済的にも、満鉄線に対する包囲態勢、関税問題、英米資本の導入など、ことごとくが日本の経済施設、大陸資源開発に対しての邪魔立てである。撫順で出炭する石炭に対しては不買を強いている。これでは、日本の大陸経営はいっさい骨抜きとされている。
郭松齢事件で、もしも日本からの、弾薬補給から、作戦的指導に到るまで、少なからぬ援助がなかったら、奉天軍の今日の武威はなかったのである。いわば大恩返しとして、商租権のごときは、奉天軍が進んで提供した権益である。
勢いに乗った張作霖は、ソロソロといつもの癖が出て、関外に出て、北京に入り、大元帥の称号を自ら宣して、多年の野望を遂げんとして得々としていた。その股肱、楊宇霆はまた、日本の恩を忘れて、米国に媚態を見せて大借款を起こさんとしている。
その忘恩的行動は枚挙にいとまがない。
翌けて昭和二年七月であった。
田中義一は総理大臣兼外務大臣として台閣にあったが、自ら主張して、いわゆる「東方会議」を開かんことを提唱した。外務政務次官に森恪がいた。
当時関東軍司令官は、白川大将去って、武藤信義中将が、大正十五年七月に代わって赴任していた。