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しんのしゅっぱつ

秦の出発

豊島 与志雄

「文芸」1945(昭和20)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 14,532 字 · 29 页

青空文庫

祈祷の文句は折によって異る。仏教の経典の一節のこともあれば、道教の教義の一節のこともある。それを口中で誦しているうちに、身体は羽毛の如く軽やかになり、やがて意識は宙空に散逸する。――だが、この時、合掌した両手が重く感ぜられてきた。重苦しく下へ下へと引きさげられるのだ。いけないな、と彼女は意識した。だが両手は、いつものように自然に美しく上向しないで、重く下へとさがってゆく……。

彼女は祈祷をやめ、平常意識に戻って、ほっと溜息をついた。額に汗がにじんでいた。――何か災があるに違いなかった。

この予見された災のことを、彼女は、秦の不在中に来あわしていた陳振東に話した。陳は笑って取り合わなかった。然しその深夜、張浩が狙撃されたのである。

この時の、全く些細な偶然――災の予兆を丹永が陳振東に話したということが、大きな結果を招いた。

陳振東は霊界のことなどは全然信じない逞ましい精神を持っている。この精神は逞ましいと共に溌剌として健全だ。そして災害が予見されたということが、加害者に対する彼の激怒を煽り立てた。加害者が仲毅生だと分った時、彼の激怒は更に倍加した。