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しんのしゅっぱつ

秦の出発

豊島 与志雄

「文芸」1945(昭和20)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 14,532 字 · 29 页

青空文庫

落着いていた。その顔を私は久しぶりに美しいと観た。それから久しぶりの彼の支那服の襟元の刺繍を眺めた。

「洪正敏に逢って来たところだ。」と彼は言った。

私は黙ってうなずいた。他に返事のしようもなかったのだ。――洪正敏というのは、南市地区に潜居してる青の大頭目である。その頃、青※(「邦/巾」、第4水準2-8-86)の頭目としては朱鵬がいて、洪正敏は全く隠退し、表向きに顔を出すことはなかったが、然しその潜勢力は朱鵬を凌ぐものがあると言われていた。

私が珈琲をすすってる間に、秦は陳振東と数語を交わし、陳振東は私の方に鄭重な辞儀をして、外へ出て行った。

「凡て済んだよ。」と秦は晴れやかに言った。

私は洪正敏との面会の模様を聞きたかった。秦は何一つ隠そうとしなかった。打明けて話すのが楽しそうでもあった。――珈琲をすすり、煙草をふかし、それから、ごたごた散らかってる室に行って、支那服を背広と着かえ、わざと時間をつぶし、少し後れめに上階の食堂へ行き、食事をしたのだが、その間に彼は断片的に話した。

その断片的なものを、茲に綴り合してみよう。

はじめ、洪正敏が逢ってくれるかどうかが危ぶまれた。