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しんのしゅっぱつ
秦の出発
豊島 与志雄
「文芸」1945(昭和20)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 14,532 字 · 29 页
その言葉には、なにか冷りとする気味合があった。私はいろいろ推測して、張浩に関することであろうかと思ったが、実はそんな単純なものではなかったことを、今では理解している。
その日、私は松崎の事務所で碁を打っていた。訪ねて来た男があるというので、廊下に出てみると、楊さんだった。普通に楊さんと呼ばれている六十年配のこの男は、秦啓源の愛人柳丹永のもとで、その保護者と従僕と料理人とをかねたような妙な地位にあった。狡猾なのか朴訥なのか分らぬ人物で、日本語も英語も可なり正確に話したが、決して長い文句は口にしなかった。
その楊さんは私を見ると秦啓源に至急逢いたいと言った。秦が今どこに居るかは私にも分らなかった。
楊さんは探るように私の顔を見ていたが、俄に、途方にくれた様子で頭を振った。そして呟いた。
「奥さんが言われました、血の色見ゆ、血の色見ゆ……。」
私が呆然としていると、楊さんはまた繰り返した。
「血の色見ゆ。」
漸く私にも分った。聞きただしてみると、前日の午後、その言葉が丹永を通じて現出したのだ。しかも秦の行先は不明である。楊さんはひどく困惑の眼付をした。
「心配しなくともよかろう。