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はこねのやま

箱根の山

田中 英光

「文藝春秋 別冊2」1946(昭和21)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 16,963 字 · 33 页

青空文庫

、おかしな野郎だと言うような一瞥を投げただけだった。それでも私が奥に声をかけていると、漸く炊事場の暖簾から中年の女のひとがひょっこり顔を覗かしたが、不愛想に手を振って、「今日は休みだよ」とそれだけ言ったと思ったら、もう顔を引っ込めてしまった。

本当にがっかりして、怨めしいような気さえしたが、元々こちらがそんな時代に無鉄砲に遠道を歩いて来たのが悪いのだから仕方がない。あっさり諦めて一郎を肩に、しょんぼり街道に立ち出で、思わず二人の共通の不幸を悲しむように訊いてしまった。「一郎、お腹が減ったろう」「ウン、とッてもだよ」それでも負われているので、未だ元気の好い返事だった。日頃、大食いの親父は息子の重みを背中に感じ、ヒョロヒョロしながらも、その重みを歩く張りにして、それから未だ一里もあった街道をもう風景に対する感動もないまでに疲れ切って歩いて行った。

すでに時計は三時を廻っていて、冬の箱根山は薄蒼い黄昏のような空気だった。方向さえ間違えずに歩いていればどんなに道は困難でも、長くても、いつかは目的地に出るに違いないと言うのが、愚かな私の信仰だが、愚かな癖に近路をしようと思う、狡い考えに罰せられて、私は中途から近路の積りで、渓流の涸れた後の、路ならぬ河床に迷いこんでしまった。