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むらさきのびん

紫の壜

豊島 与志雄

「明日」1948(昭和23)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 11,802 字 · 24 页

青空文庫

彼女は酒と煙草とを私にすすめ、自分でも両方に手を出した。そしてしきりに私の話だけを聞きたがり、自分の方のことは殆んど話さなかった。それでも現在のことだけは打ち明けた。彼女は借家主のおばさんと酒場を一緒にやり、資本は彼女が出していた。おばさん夫婦は二階の六畳一間に寝起きし、夫は或る公共営団に勤めてるらしかった。室の様子では、彼女に旦那とか情人めいた男はなさそうだった。――それだけの収穫で、私は程よく辞し去った。

それから、私は財布が許す限りしばしば、彼女のところへ飲みに行くようになった。酔っぱらった揚句、一度、彼女の唇を求めたことがある。彼女は笑いながら、ほんのちょっとの間それを私に許した。全く受動的な無反応な冷たい唇だった。その代り、私は彼女の手をじっと握りしめることが多かった。それを彼女は拒まなかった。妙な工合だった。昔――そうだ、もう昔の感じだが――私たちはよく手を握り合ったものだ。彼女の家のミルクホールの片隅で、縁日の夜の暗がりで、人目をさけて手を握り合った。その昔のことが、違った色合で蘇ってきたのだ。私は焦燥に駆らるることがあった。彼女は執拗に眼を伏せていた。