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じょうはつざら
蒸発皿
寺田 寅彦
「中央公論」1933(昭和8)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 8,912 字 · 18 页
この男は別に切符をくれともなんとも言いはしなかったが、しかし、あの咄嗟の場合に、自分が、もう少し血のめぐりの早い人間であったら、何も考えないで即座に電車切符をやらないではおかないであったろうと思われるほどに実に気の毒な思いをそそる何物かがあの父子の身辺につきまとっていたではないか。
しかし、また考えてみると、切符をくれと言わずに切符をもらうという巧妙な手段を考えてそれを遂行するとすれば、だれが見てもいかにも切符をやりたくなるというだけの何物かを用意しなければならぬのは明らかなことである。それには寒空に無帽の着流し、足駄ばき、あごの不精ひげに背の子等は必要で有効な道具立てでなければならない。
そう考えて来ると、第一この男が丸の内仲通りを歩いていて、しかもそこで亀井戸への道を聞くということが少し解しにくいことに思われて来る。こういう男がこの界隈のビルディング街の住民であろうとは思われない。いずれ芝か麻布へんから来たものとすれば、たとえば日比谷へんで多数の人のいる所で道を聞いてもよさそうなものである。それがこのさびしい夜の仲通りを、しかも東から西へ向かって歩きながら、たまたま出会った自分に亀井戸への道を聞くのは少しおかしいようにも思われる。