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たでくうむし
蓼喰う虫
谷崎 潤一郎
「大阪毎日新聞 夕刊」1928(昭和3)年12月3日~1929(昭和4)6月17日<br>「東京日日新聞 夕刊」1928(昭和3)年12月3日~1929(昭和4)6月18日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 110,066 字 · 216 页
あきらめたように見えたのは実はあきらめたのではなく、いつかは夫の情のかかる折もあろうかと長い歳月をこらえていたのが、とうとう待ちきれなくなったのであろうか。彼は「何と云う馬鹿な女だ」と腹立たしくさえ感じながら、矢張昔のようにだまってそれを聞き過した。が、そののち毎晩のようにすすり泣くのを止めないのが余りにも不思議なので、「うるさいじゃないか」と、一ぺん叱ってみたことがあった。すると美佐子は彼の叱をキッカケにして一層声を放って泣いた。「堪忍して下さい、あたしあなたに今日まで隠していたことがあるのよ」―――と、その声の下から彼女は云った。それは要には意外でないことはなかったけれども、同時に繋縛を解かれたような、不意に肩の荷が除かれたような気安さを与えないでもなかった。自分はやっとひろびろとした野原の空気を胸一杯に吸うことが出来る、―――彼はそう思ったばかりでなく、その時蓐に仰向けになって、実際ふかぶかと肺の底まで息を吸った。彼女の愛は、今までのところでは心臓だけのものであって、それ以上には進んでいないと云うことだったし、彼もその告白を疑いはしなかったけれども、しかしそれにしても道徳的に彼の負いめを相殺するには事が足りた。