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たでくうむし
蓼喰う虫
谷崎 潤一郎
「大阪毎日新聞 夕刊」1928(昭和3)年12月3日~1929(昭和4)6月17日<br>「東京日日新聞 夕刊」1928(昭和3)年12月3日~1929(昭和4)6月18日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 110,066 字 · 216 页
そう云ってお久は老人の前へ三味線を置いた。
「要さんは『ゆき』の文句の意味がよく分るかね」
と、何気ない体で三味線を取って調子を低く直しながら、内々老人は得意の色をつつむことが出来ないのである。東京時代に一中節の素養があるせいか、地唄のけいこはほんの近年のことだけれども、わりに巧者に弾きもすれば、唄いもして、しろうとが聞けば、とにかく一種の味わいがあった。そして当人もそれを少からず自慢にしていて、いっぱしの師匠のように叱言を云うのが、なおさらお久は助からなかった。
「さあ、いったい昔の唄の文句と云うものは、ぼんやり心持は分るような気がしますけれど、文法的に云ったらば殆ど出鱈目じゃあないんですかな」
「そうだよ、全く。………昔の人は文法なんかは考えない。ぼんやり心持が分る、―――その程度で沢山なんだね。そのぼんやりとしているところに却って余韻があるんだね。たとえばこんな文句がある、―――」
と、老人はすぐ唄い出しながら、「………『今は野沢の一つ水、澄まぬ心の主にもしばし、すむは由縁の月の影、忍びてうつす窓の内』………それからあとが『広い世界に住みながら』となるんだが、これは男が女の許へ忍んで来るところなんだ。