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たでくうむし

蓼喰う虫

谷崎 潤一郎

「大阪毎日新聞 夕刊」1928(昭和3)年12月3日~1929(昭和4)6月17日<br>「東京日日新聞 夕刊」1928(昭和3)年12月3日~1929(昭和4)6月18日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 110,066 字 · 216 页

青空文庫

第一に彼は妻と二人きりで外を歩く場合の、―――此処から道頓堀までのほんの一時間ばかりではあるが、お互の気づまりな道中が思いやられた。それに、「須磨へ行くのは明日でもいい」と妻はそう云っているものの、多分約束がしてあるのであろうし、そうでないまでも、彼女に取っては面白くもない人形芝居を見せられるより、阿曽の所へ行った方がいいにきまっていることを察してやらないのも気が済まなかった。

ゆうべ京都の妻の父から、「明日都合がよかったら夫婦で弁天座へ来るように」と云う電話があったとき、一往妻に相談すべきであったのだが、折あしく彼女が留守だったので、「大概ならばお伺いいたします」と、要はうっかり答えてしまった。それと云うのが、「僕は長いこと文楽の人形を見たことがありませんので、今度おいでになる時には是非誘っていただきたい」と、いつぞや老人の機嫌を取るために心にもないおあいそを云ったのを、老人の方ではよく覚えていてわざわざ知らしてくれたのであるから、彼としては断りにくい場合でもあったし、それに人形芝居はとにかく、あの老人に附き合ってゆっくり話をするような機会が、ひょっとしたらもうこれっきり来ないであろうとも思えたからだった。