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こわく

蠱惑

豊島 与志雄

「新思潮」1914(大正3)年3月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,765 字 · 28 页

青空文庫

その時女中が向うの隅に立ったまま私を見ていた。私はおい! と叫んだ。そして熱くして珈琲を一つくれと云った。

然し何だか自分をとり落したような気がしていた。そしておかしな空虚が胸の中に蟠っていた。その時私は何気なく左手を懐に入れたら、堅いものが触った。

私の全身にぎくっという音がした。はっとして私に強い意識が返って来た。一瞬間彼の眼付が前に浮んだ。そして消えた。私は強く懐剣を懐のうちで握りしめた。凡てのことがはっきりと私に分ったのだ。

何の音も声もしない。唯じっとした静けさだ。そして私の意識が凡てのものの上にしみ渡ってゆく。其処には光りも影もなくて唯深い明るみがあるんだ。その明るみが力一杯に緊張している。何物をも許さないんだ。大きく眼を見張ったままじりじりと凡てが迫ってゆく。私の意力がその中にこもっているんだ。私は両手で緊と懐剣を握りしめ、息を凝らしてぶるぶると全身の筋肉を震わした。

――私は彼奴を微塵にうち砕いてやろう。

何という力強い緊張だろう! このままじっとしていることは許されないんだ。何かが破れそうだ、裂けそうだ。真直に、そうだ真直に私は彼奴に向って突進するばかりなんだ。