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こわく
蠱惑
豊島 与志雄
「新思潮」1914(大正3)年3月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,765 字 · 28 页
翌日医者が来た。ひどい神経衰弱だと私が云ってやった。そうですと彼が云った。
医者が帰ってから母が私の枕頭に坐って、私をじっと見ている。冷たい探るような眼付だ。じっと私の魂を見透そうとしているんだ。
「お母さん! そんな眼付をしてはいけません。」
と私は云った。
その時母の眼からほろりと涙が落ちた。ほんとに清らかな輝いた玉なんだ。それがきたなく銘仙の着物の膝ににじんでゆく。私はいきなり身を起して、小さく切った林檎が盛ってあった、空色の薄い玻璃皿を取って母の膝に置いた。丁度その時又涙がぽたりと落ちて皿の中で砕けた。
母はその時涙の一杯たまった眼で美しく微笑んだ。それで私も我知らず微笑んだ。そしたら大変安らかな気分になった。
私はまだ甚だしく疲労していた。暫く外に出ないがいいと母が云った。それで私は何時も自分の室にとじ籠っていた。もう何処へも出たくなかったのだ。
私はその時遠くに去ってしまったかの男について自分の記憶を誌しはじめた。それは非常に大切なことだったのだ。はじめは文句も成さなかったのを幾度も書き直した。次第に真実が失われて作為が多くなるような気もした。