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だれもしらぬ

誰も知らぬ

太宰 治

「若草」1940(昭和15)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 7,123 字 · 14 页

青空文庫

市ヶ谷見附の市電の停留場にたどりついたときは、ほとんど呼吸ができないくらいに、からだが苦しく眼の先がもやもや暗くて、きっとあれは気を失う一歩手前の状態だったのでございましょう。停留場には人影ひとつ無かったのでした。たったいま、電車が通過した跡の様子でございました。私は最後の一つの念願として、兄さあん! とできるだけの声を絞って呼んでみました。しんとしています。私は胸に両袖を合せて帰りました。途々、身なりを整えてお家へ戻り、静かにお部屋の障子をあけたら、母は、何かあったのかい? といぶかしそうに私の顔を見るので、ええ、芹川さんがいなくなったんですって、たいへんねえ、とさりげなく答えて、また縫いものをはじめました。母は、何か私につづけて問いたいふうでしたが、思いかえした様子で、黙って縫いものをつづけました。それだけの話でございます。芹川さんは、まえにも申し上げましたが、その三田のおかたと芽出度く結婚なされて、いまは朝鮮のほうにいらっしゃる様子でございます。私もその翌年に、いまの主人を迎えました。芹川さんの兄さんとは、そののちお逢いしても、別になんともございません。