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おしゃく
雛妓
岡本 かの子
「日本評論」1939(昭和14)年5月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 26,482 字 · 53 页
「今に巴里へ行って、マロニエの花を見ましょうねえ。シャンゼリゼーで馬車に乗りましょうねえ」
それは自分でさえ何の意味か判らないほど切ないまぎれの譫言のようなものであった。頑是ない息子は、それでも「あい、――あい」と聴いていた。
この話を後に聴いて、逸作は後悔の念と共に深く心に決したものがあるようであった。「おまえと息子には屹度、巴里を見せてやるぞ」と言った。恩怨の事柄は必ず報ゆる町奴風の昔気質の逸作が、こう思い立った以上、いつかそれが執り行われることは明かである。だが、すべてが一家三人珠数繋りでなければ何事にも興味が持てなくなっているわたくしたちの家の海外移動の準備は、金の事だけでも生やさしいものではなかった。それを逸作は油断なく而も事も無げに取計いつつあった。
「いつ行かれるか判らないけれど、ともかくそのための侘住居よ」
わたくしは雛妓に訳をざっと説明してから家の中を見廻して、「ですからここは借家よ」と言った。
すると雛妓は、
「あたしも、洋行に一緒に行き度い。ぜひよ。ねえ、奥さん。先生に頼んでよ」
と、両手でわたくしの袂を取って、懸命に左右へ振った。