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あめ
雨
織田 作之助
「海風 第四巻二号」1938(昭和13)年11月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 30,421 字 · 60 页
あたりのざわめきが、まるで遠くの空にきこえているようで、眼の前がぼうっと霞み、白い視野の中で、母親の赤い唇がうかんでいた。誰に手をひっぱられたのか、どこをどう通ったのか、どれ位時が経ったのか、やがてまるで端唄をうたうような意気な調子の高砂やの声に初てはっと眼覚める想いで、声の主をみた。朝っぱらから呑み続けている赤い顔で、でっぷり肥り、坐蒲団を折って尻の下にあてがい、胡坐をかいていた。それが安二郎であった。儀式張ったことはこの際、とはいうものゝ、高砂の一つ位はあってしかるべく、外にそれをやれる粋者も居らぬを倖い、咽喉自慢の花むこ自ら担当の高砂であった。その夜、豹一は誰の眼にも異様にみえた。彼の真青な顔や瞬き一つしない鋭い眼の輝きは見逃されたとしても再三すゝめられても御馳走に箸一つつけない彼の強情振りは、明らかに人眼をひいた。苦しくて喰べられないのだといいわけし、自分自身もそうだと決めていたのだが、人々はこの子は余り人に好かれないだろうと思った。新しい父への反撥心からか、あるいは安二郎の咽喉の良さを賞讃したときの母親に自分と距離の出来てしまった姿を感じての不満からか、訳も分らぬ敵愾心に釘づけになって、ひそかに秋の夜の長さに毒づいていた。