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しもばしら
霜柱
山本 周五郎
「オール読物」文藝春秋新社、1960(昭和35)年3月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 14,328 字 · 29 页
上からおりて来る者があった。
――義十郎か。
そう思ったのだが、霧の中をおりて来たのは繁野兵庫であった。喜兵衛は口をあき、兵庫がよろめくのを茫然と眺めていた。極めて短い時間だったろうが、兵庫の姿が夢の中で見る人のように感じられたのである。――だがすぐに、喜兵衛はそっちへ駆け登った。霜柱のために滑って膝を突き、立ちあがってまた膝を突き、両手も泥まみれになった。
兵庫は彼の見ている前で倒れ、低い呻き声をもらした。二十尺にも足りない距離を、喜兵衛は泥まみれになりながら、殆んど這うようにして登った。
「御家老」と彼は喘ぎ喘ぎ、兵庫を覗きこんで呼びかけた、「どうなさいました、御家老」
「済ませて来た」と兵庫が歯と歯のあいだから云った、「おれは自分の手でやりたかった、人の手に掛けたくはなかったのだ」
喜兵衛はぎゅっと顔をしかめた。兵庫の躯から血の匂いがたち、見ると、脇腹を押えている手が赤く染まっていた。
「傷をみましょう」と喜兵衛が云った。
「大丈夫、深手ではない」と兵庫がしっかりした声で云った、「あの臆病者は、霧の中からとびだして来て、いきなり刺した、深くはない、急所も外れている、――ばかなやつが、おれだとわかったら、ふるえだして、人違いだと云った」