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ふうちそう
風知草
宮本 百合子
「文芸春秋」1946(昭和21)年9~11月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 44,107 字 · 88 页
ひろ子の妹が、疎開して、夷隅川のそばの障子も畳もない小屋に菰垂れの姫というような暮しをしていた。ひろ子はそこで、潮の香をかぎ、鯨油ランプの光にてらされる夜、濤の音をきき、豆の花と松の若芽の伸びを見ながら、井戸ばたでよごれた皿などを洗って数日くらした。その数日は、それまでの数年間のくらしの精髄が若松のかおりをこめた丸い露の玉に凝って、ひろ子の心情に滴りおちるような日々であった。
「――チェホフが、おくさんのクニッペルにやった手紙およみになった?」
ひろ子は、封筒の中へ、原稿をしまいながら、重吉にきいた。
「今おぼえていないな」
「チェホフは、しゃんとした人だったのねえ、クニッペルに、芸術家としてお前自身の線を出せ、自分の線を発見しろ、とくりかえし云っているのよ。――でも、私はつくづく思ったわ。クニッペルにはおそらく特色とか個性とかいう位にしかうけとられなかったでしょうと。――ある芸術家の線なんて、全く歴史的だわ、ねえ。線としてまとまる要素なんかほんとに複雑だわ。しかし、まとまるためには微妙きわまる媒介体がいるのよ。それは、理窟じゃないわ、ただの理窟じゃないわ。