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くろいてちょう

黒い手帳

久生 十蘭

「新青年」1937(昭和12)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,026 字 · 38 页

青空文庫

一、彼は長椅子に寝ころがって煙草をふかしていた。部屋の紙屑は残らず消え、意外に清潔なようすになっていた。机の上にも埃がたまっていてしばらくそこに倚らなかったことを示していた。

彼は元気よくはね起きて「おれが逢いたいと思ってるとかならず貴様がのこのこやってくる。おれと貴様の間には感応し合う電気のようなものがあるのかも知れぬな」といった。「じつはお前を晩飯に誘おうと思ってやってきたのだ。もっとも二人きりじゃない四階の夫婦もまじるのだが」

案の定彼はうんとはいわなかった。女は苦手だとか、おれはもう社交の習慣を忘れてしまったとか、いろいろな口実を設けて頑強に反抗した。自分はそこで「バタを載っけた灸牛肉と鰻と、生牡蠣と鶏と……これだけのご馳走がお前のために用意してあるのだ」といってそれらの料理について精細な描写をした。

彼は頭を抱えて呻いていたが「貴様はひとの弱点をつくようなことをする。貴様の策略にのるのは忌々しくてたまらんが、抵抗は出来ん。よし行く」といってたちあがった。

彼の貪食ぶりは言語に絶した壮観で、挑みかかるようにありったけのものを喰いつくすと、喉を鳴らして遠慮なく気をした。