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くろいてちょう
黒い手帳
久生 十蘭
「新青年」1937(昭和12)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,026 字 · 38 页
彼は頭を抱えて長椅子に仰臥していた。その顔には苦悩の影がやどっていたが、不吉を感じさせるようなものは見られなかった。彼はチラリと目だけうごかして自分のほうを見ると、「おい、おれはみょうなことになったよ」ととつぜんにいった。「おれは熱烈にあの妻君を愛するようになってしまった。これだけは君にも告白しないつもりだったが苦しくて我慢できぬからいう……どうしてこんなことがはじまったか説明は出来ぬ。おれは過去にこんな経験を持たぬので、これを恋愛だと認めるのさえだいぶ暇がかかった。はじめおれはたぶん情慾だけの問題だとかんがえたのでスファシクス(巴里の公認女郎屋の名)へ出かけてみた。そしてこの感情は肉体の飢餓でなく、心の飢餓によってひきおこされたものだということを知った。
四十三歳ではじめて恋愛をしたといったら貴様は笑うかもしれぬ。しかしどういう激烈な状態ではじまるものかそれだけは察してくれるだろう。この十日の間どのくらい悶え悩んだか、説明したところで通じるはずはないからいわぬ。ただおれは人間が経験するであろう苦悩の最も深刻なものを経験したとだけいっておく。率直にいうが、おれはあの細君に愛されたい、おれのものにしたい。