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くろいてちょう
黒い手帳
久生 十蘭
「新青年」1937(昭和12)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,026 字 · 38 页
そして、これでは食事にもさしつかえるから、妻君に病中の用事を達してもらいたい、君から頼んでくれるわけにはゆかぬかと、臆し、赤面しながら、極めて遠廻しにその意味をいった。
彼の不憫な恋情がいとしまれてならぬ。その苦しい心の中はもとよりよくわかるが、夫婦にむざむざ機会を与えるような取り計いは出来ぬ。「それくらいのことで、妻君を煩わす必要はない。おれがやってやる」といった。果して彼は落胆したようすで、以来非常によそよそしくするようになった。無情を怨むような眼つきをし、時には自分の来ることを好まぬような態度さえ露骨に示す。
一、三日ほど後の夜、妻君が六階の住人を夕食に招きたいから言づてを頼むといった。自分さえ喰えないやつらがなんで人を招く。また新奇な方法を案出したと見てとったので、彼は風邪気味だから招待には応じられまいと告げた。夫婦が彼に接触する口実になりはせぬかとおそれたのである。
次の夜、はいってゆくと妻君が寝床で丸薬を飲んでいた。丸薬の箱にポリモス錠と書いてあった。病気かときくと、「このごろ何となく元気がないから強壮剤をのんでいる」とこたえた。食事ののち、夫婦に背を向けて新聞に読み耽っていたが、そのうちになにげなく顔をあげ、ピアノの黒漆に映じている異様なものを見た。