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くろいてちょう
黒い手帳
久生 十蘭
「新青年」1937(昭和12)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,026 字 · 38 页
行ってみると彼はとめどもなく嘔吐しつづけていた。もはや吐くものがなくなり薄桃色の液を吐いていた。
夜あけ近く六階へあがって行った。扉をひきあけると思いがけない光景が展開した。夫婦は睡眠不足で赤く眼を腫らして緊張したようすで動きまわっていた。妻君は湯タンポを入れ換え、襁褓をひきだし、亭主のほうは裸の胸へ彼の足をおしつけて体温で温めようと一心になっていた。ときどき彼の顔のほうへ耳をよせ、彼の呼吸がすこしでも安まり、彼の顔から苦痛の色がうすらぐと夫婦は涙ぐんだ眼でうれしそうにうなずきあうのだった。困惑した頭では、この成りゆきに解釈をあたえることができず茫然たる心をいだいて部屋へ帰った。
一、二週日にわたる夫婦の看護で、彼は類似赤痢から奇蹟的に命をとりとめ、寝台のうえに坐っていた。自分を寝台の横にかけさせると唇のはしに皮肉な皺をよせながらいった。
「おれは自殺するつもりで、毎晩あの雨受けの腐れ水をのんでいたんだ。これ以上生き長らえていると、賭博の研究で次第に消耗してしまう。そんな死に方では死にきれなくなったんだ。おれのシステムが完成して千万の金をもうけたっておれの肉体は過労で困憊して、その金をバラ撒く力さえ残っていないだろう。