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デカルトてつがくについて
デカルト哲学について
西田 幾多郎
線上閱讀西田 幾多郎《デカルト哲学について(デカルトてつがくについて)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。
N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 19,032 字 · 38 頁
主語となって述語とならない基体が、逆に述語的に主語的なるものを包み、すべての判断を自己限定として成立せしめる述語的主体となったということができる。無論、斯くいうのは、色々のカント学派の人々から色々の異議があるでもあろう。私は今これらの議論に入らない。とにかく、カント哲学においては、先験感覚論の始にいっている如き、我々の自己が外から動かされるという如き主客の対立、相互限定ということが根柢にあり、そこに主語的論理の考え方を脱していない。いわゆる物自体の難問も、そこから起って来るのである。主客の対立を形式と内容または質料との対立に代えても同様である。フィヒテに至っては、周知の如く、かかる不徹底的矛盾を除去すべく、認識主観の実体化の方向に進んだ。述語的主体は自己自身を限定する形而上学的実体となった。それがフィヒテの超越的自我である。私はフィヒテにおいて新なる実在の概念が出て来たと思う。デカルト哲学においては、自己自身によってある実体は、主語的方向への超越によって考えられたが、フィヒテにおいては、述語的方向への超越によって考えられたといってよい。
カントからフィヒテへの方向の徹底化は、デカルトからスピノザへの方向の徹底化と同様である。