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さかたのばあい
坂田の場合
豊島 与志雄
線上閱讀豊島 与志雄《坂田の場合(さかたのばあい)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。
N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 14,335 字 · 29 頁
中津敏子がやって来たのは、晩の八時すぎだった。坂田は長椅子に身を投げ出して、深い物思いに沈んでいた。頬に血の色がなく、眼差しには薄い幕でも垂れてるような工合だった。彼は敏子の名刺を見ても咄嗟には思い出せない様子だった。それから女中を呼びとめて、座敷の方でなくこちらに通してよいと云った。
敏子ははいって来ると、お時儀をしてからそこに立止った。引きしまった頬にぽっと上気して、理知的な眼を伏せていた。それを坂田はじっと見やったが、予期していた人とは別な人をでも見るような眼付だった。不自然なほど長く、十秒ほどもかかって、漸く、眼の映像と意識とが会った時、坂田の頬にぱっと赤みがさした。がそれは次の瞬間に消えて、彼は中央の円卓に自らつき、その向うに敏子を招じていた。
「あの……お邪魔ではございませんでしょうか。」と敏子は低い声で云った。
「いえ、かまいません。」
そして坂田は煙草をふかし、敏子はそれとなく室の中をうかがっていた。室の有様が彼女の想像とはまるで違っていたらしく、そちらに気をとられていた。坂田は煙草の煙の間から、彼女の無雑作な束髪や紫地に太縞のお召銘仙の着物を、ぼんやり眺めていた。