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あるおとこのしゅき

或る男の手記

豊島 与志雄

線上閱讀豊島 与志雄《或る男の手記(あるおとこのしゅき)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。

N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 43,279 字 · 86 頁

青空文庫

私は社の上役に断っておいて、光子と一緒に外へ出た。丁度その日私は和服をつけていたので、袴が多少邪魔になりはしたけれど、洋服よりは都合がよかった。ステッキを打振ったり引きずったりしながら、内幸町から宮城前の堀端の方へ歩いていった。街路の地面は心地よく乾いていて、ほっこりとした温みのある日の光が、私達の身体を包み込んだ。光子は軽快な足取りで私と並んで歩きながら、変に黙り込んでしまった。それも何かを思い耽ってるという風ではなく、顔付も眼付も暢やかになって、何だかこう夢をでもみてるかのようだった。昼飯を食べようかと云っても、欲しくないとだけ答えた。一体どうしたというんだろう? 私にはさっぱり訳が分らなくなった。思い切って真正面から、話というのはどんなことですかと、少しきつい調子で尋ねてみた。

「もういいんですわ。先生にお目にかかったら、どうでもいいような気がしてきたんですもの。」

「それで?」

「それでって……。」

そして彼女は一寸地面を見つめたが、何を思い出したのかくすくすと一人笑いをした。たったそれだけのことだが、それが私の心を軽く憤らした。この軽い憤りほど始末の悪いものはない。