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しぶやけのしそ
渋谷家の始祖
宮本 百合子
線上閱讀宮本 百合子《渋谷家の始祖(しぶやけのしそ)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。
N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 68,023 字 · 133 頁
心に喰い込んだ疑惑に包まれながら、疑いと信頼と半々な心持で、いつも正隆は、この老年に近い校長を眺めるのである。
ところが或る日の放課後、行くでも帰るでもない正隆が、呆然(ぼんやり)と、図書室の柱により掛っているところへ、思いがけず、副島氏が来掛った。そして、周囲に人のいないのを見ると、いきなりつかつかと近寄って来て、親しく彼の肩を叩きながら、先ず、
「どうですね」
とお定りの口を切った。が、今日は、それだけで終りはしなかった。副島氏は、全く思いがけず、正隆を夜の食事に誘ったのである。
副島氏の言葉によれば、夫人も、彼には逢いたがっているのだそうだ。瞬間、返事に窮すような気分を感じながら、それでも正隆は、明に嬉しかった。
美貌で評判の高い副島夫人が、自分を顧みてくれたということが、正隆の、久しく封じられていた遊戯(いたずら)心を擽る。彼は、その時ばかりは、皮肉さの微塵もない微笑で、承諾した。
長い、退屈な、単調な田舎の生活に飽き尽した正隆の心は、表情の豊かな夫人の美と、抑揚に張りのある、丸い、転る東京弁に慰められて、想像以上に活気づいた。
罪のない饒舌で坐を賑わす夫人と、何時の間にか、一寸した冗談を云い合うほど、彼はいい心持に有頂天になった。