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ヘヤーピンいっぽん

ヘヤーピン一本

豊島 与志雄

線上閱讀豊島 与志雄《ヘヤーピン一本(ヘヤーピンいっぽん)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。

N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 8,246 字 · 17 頁

青空文庫

娘は洗面所に立ってゆき、戻ってくると、柱鏡を見ながら、髪をなでつけ頬をパフでたたき、布団をたたみ、雨戸をすっかり開き、お辞儀のようなまねをして言った。

「お早うございます。」

「お早う。」と俺もはじめて言葉をかけた。

娘はどう見てもカツギヤではなかった。背は低く、肥った丸っこい体で、顔も丸く、丸い眼をして、にこりともしないで、俺の方を見てるのだ。俺の方で少し極りわるくなって、照れかくしに言った。

「御飯は出来ないようですが、味噌汁でも吸いませんか。わりにうまいですよ。」

娘は頷いて、ボストンバッグの中をかきまわし、自分で立っていった。

やがて、女中が運んできたお盆には、味噌汁の大きな鉢と、たくあんと、小さな缶詰がのっていた。俺の方では、酒をも一本たのんだ。

娘は俺の方へ、缶詰をそっと差出した。

「これを、お酒の肴にあがって下さい。昨晩のお礼ですから……。」

蓋をあけた小さな鮭缶だった。

俺は辞退した。お礼なんて、何のことか分らないのだ。だが、娘は主張する。昨晩、つまり夜明け前、汽車から降りて困っていると、同じように困っているらしい俺の姿を見かけ、後からそっとつけて来て、うまく、この宿屋に泊ることが出来たのだ。