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あるおとこのしゅき

或る男の手記

豊島 与志雄

線上閱讀豊島 与志雄《或る男の手記(あるおとこのしゅき)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。

N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 43,279 字 · 86 頁

青空文庫

然しそういう状態はいけないものだった、少くとも変則のものだった。多くの人は落着いて仕事をしたいと云うのに、私だけは、落着いていては仕事が出来ないというのだから。それに……いやこのことも先で云うことにしよう。

私は光子を応接室に通さしておいて、ゆっくりと心構えをしながら出て行った。光子は私の姿を見ると、喫驚したように立上ったが、ぎごちないお辞儀を一つすると同時に、微笑とも苦笑ともつかない影を顔に漂わして、そのまま腰を下ろしてしまった。そして、私が腰を下ろしてからやや間を置いて、改まった調子で初めて口を開いた。

「あの……お邪魔ではございませんでしょうか。」

「いいえ別に……。」そして私は一寸落着かない心持で尋ねた。「何か急なお話があるんですか。」

「ええ、是非先生に聞いて頂きたいことがございましたんですけれど……。」

だんだん語尾の調子をゆるくしながら口籠ってしまって、変に固苦しくかしこまった。その様子を私はじろじろ見やりながら、遠廻しにそれとなく話を引出そうとした。然し彼女はなかなかそれらしい話を切出さなかった。河野さんの家に於ける生活状態などを、私の問に対して簡単な文句で答えはしたが、心が外に向いてることは、その様子にも明かだった。