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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
線上閱讀山本 周五郎《樅ノ木は残った(もみノきはのこった)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。
N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 頁
風のまえぶれ
「歩いてゆく」と虎之助は拒んだ。
「いいじゃないか、もうしばらく抱っこはできないよ」
「歩いてゆくんだ」
「なんだ、怒っているのか」
丹三郎は笑って、宇乃の顔を見た。それから二人で虎之助の手を左右から取って、たつ女の待っている部屋へ戻った。その途中、丹三郎は声をほそめて、宇乃にすばやく云った。
「あのことを訊いたか」
宇乃は答えなかった。丹三郎は訝しそうに宇乃を見た。
「訊かなかったのか」
「はい」と宇乃は云った。
「両親の仇が誰だったか、討たせてもらえるかどうか、訊いてみなかったのか」
「訊きませんでした」
「どうして」
宇乃は答えなかった。丹三郎はじっと宇乃の顔をみつめ、それから気を変えるように、まあいいと云った。
「私が付いているからね、いつかは、私がきっと仇を討たせてあげるよ」
宇乃は振返って、庭の向うの樅ノ木を見やった。土塀をすべって来る午後の日ざしが、その木の上半分を照らしていた。
風のまえぶれ
良源院を出た甲斐は、そこから湯島へまわった。
その家は湯島台の、上野に近いほうにあった。和泉橋を渡って、神田明神社の脇の坂をあがり、林大学頭家の馬場(そこには後に聖堂が建てられた)から本郷通りへ出てゆけば、門口まで駕籠を乗りつけることができた。